『天台宗のおしえ』


 天台宗のおしえについて様々な書が著されていますが、管見ではかつて小生の得度記念に頂戴した冊子『天台宗のおしえ―宗祖大師のご事蹟ををたどりて―』(高木亮範師)が一般の方にも分かりやすい言葉で綴られ、かつ簡潔にまとめられていると思います。一般の方に天台宗のおしえを分かりやすく知っていただくための好適な資料としてここに引用させていただきます。
 適宜振り仮名や注をカッコで加え、明らかに誤植と思われる文字の訂正など最小限の編集をしました。


  

 目 次


まえがき
天台宗と法華経

  天台大師のお経の分類
  天台宗の名称のいわれ
宗祖大師のこ事蹟にたどるみ教え
  出生と出家
  比叡の山にこもられた動機
  願 文
  一切経の書写
  一乗止観院の建立
  法を求めて唐に渡る
  天台宗の公認
  法華経の内容
    (1)法華経の迹門
    (2)三車火宅の喩
    (3)法華の本門
    (4)法華のおしえに相応した日本

  四宗融合と神道
  一乗と三乗の論争
  地方巡教
  籠山修行のさだめ
  小乗戒をすてて大乗戒を建てる
  三聚浄戒
  大乗戒坦建立の運動
  伝教大師の遷化と大乗戒坦建立の勅許
  大師号のはじめ
天台宗のおしえの実践
  修行の心構―(1)一心三観
         (2)一念三千

  修行の方法-四種三昧
生と死の問題
むすび


  

 まえがき


 ここにかく多数の皆さま、ご参集いただきまして有難うこざいます。時間を十分頂いておりますので、ゆつくりお話をさせて頂きますから、どうか皆さまも、くつろいだ気持でお聞きとり願いたいと存じます、ここにおいでの皆さまのほとんどの方が、わが天台宗の檀信徒であるか、また天台宗にご縁のある方々とお見受けいたします。したがって天台宗とはどんな宗旨であり、宗祖はどんな方で、本山は何処にあるかはご存じの方々とお察しいたします。
 しかし、されば天台宗ではどんなおしえを説き、どんな信仰をお勧めしているかということを質問いたしますならば、即座にお答えのできる方が、何人いられるでしょうか、もしいらっしゃったらお答え願います。これが門徒宗の方々であつたら、きっと言下に「南無阿弥陀仏」、一向念仏と、また日蓮宗の方であったら「南無妙法蓮華経」、お題目の有難さに随喜(ずいき)しているとお答えになるでしよう。皆さまの中には天台宗ではお念仏を唱えるから、往生極楽を願うお念仏の宗旨であると思っていられる方があるでしょう。なかにはうちの寺ではお不動さまをまつって護摩(ごま)をたいているから成田山と同じであると考えて信仰していられる方もあると思います。その他、薬師さま、お釈迦さま、観音さま、お地蔵さま、或は元三(がんさん)大師と寺々によってまつってある信仰の対象がちがっておりますので、皆さまは天台宗の檀信徒として、ここに一堂に集っていられるが、よくうかがって見ればそれぞれちがった信仰をもった方々の集りであると申すことができるでしょう。あるいは単に先祖代々天台宗の寺の檀家であるから漠然と天台宗の檀信徒として、集まれといわれたから集ったという方々もいられるのではないでしょうか。いかがです!!皆さまの中にはこうした方々が多いのではないでしょうか。
 まことに天台宗という宗旨はこのように漠然とした宗旨でありまして、またこれが他の宗旨とちがった天台宗の特微であります。しかし天台宗のおしえは決して曖昧なとりとめのないものではなく、教義では一貫した立派なものがあり、永い歴史の問にたくさんのすぐれた学僧がでて、深い、広い、難かしい教学につくりあげられ、世界のあらゆる宗教の中でも最高の教義や哲理をもった宗旨であります。よって現在仏教を論ずる場合、天台宗の教義をおいては仏教を論ずることができないほど、各宗のおしえの根幹をなしているのであります。日本仏教の各宗派がちがったおしえを説き、ちがった行法を行なっているようでありますが、いずれも天台宗から分れ、天台宗のおしえを基本としているのであります。つまり天台宗は日本仏教の本家本元であり、宗祖伝教大師を根本伝教大師と申上げ、本山を総本山と称し、比叡山の本堂を根本中堂というのもこうした意味からであると、私は理解しております。


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 天台宗と法華経


 では天台宗のおしえとはどのようなものであるか、ということになりますが、いま申した通り非常に深い、かつ広いおしえでありますから簡単にのべることは難かしいのでありますが、今日、皆さまにはっきり覚えて帰って頂きたいことは、天台宗はつぶさには「天台法華円宗」と申して、法華宗であるということであります。すなわち法華経を根本経典とした宗旨であります。   

  天台大師のお経の分類

 これは今から干四百九十余年前に、中国荊州(けいしゅう。現在の湖南省華容県)に出生された智者大師智(ちぎ)禅師という方が、浙江省(せっこうしょう)の天台山におられた。お釈迦さまが五十年問お説教されたお経七干余巻これを大蔵経または一切経と申して、大正年問に日本で編集された大正新修大蔵経にまとめられたお経の数は一万一千九百七十巻にもなっております。俗に八万四干の法門といわれていますが、私どもは一生かかってもとうてい読み切れるものではありません。またその中で一番すぐれた有難いのはどれかと捜がすことは容易なことではありません。ところが智者大師はこれらを全部読破されて、お釈迦さまが浅いおしえから深いおしえへと、人々を教化されたおしえを順序立てられ、わかり易くいえば、これは幼稚園向、これは小学校向、これは高校向、これは短大向、これは大学向というように整理分類されて、最後にもっともお釈迦さまのこ本意にかなったすぐれたお経が、妙法蓮華経八巻であると結論をつけられたのであります。そして法華経に説かれているおしえに基づいて、宗教生活の実践法を詳しくたてられて宗旨を開かれたのであります。この宗旨を大師の本住地であったお山の名をとって天台宗といわれ、大師を天台大師と申上げるのが通例になっております。   

  天台宗の名称のいわれ

 ここで天台の名称について申上げますと、専門的にいうと處と人と家との三義にわたって難かしい解釈がありますが、いまは簡単に申上げれば、天は空ではなく顛で山の頂上の意味で、台は臺の略字ではなく、星という字であります。天台山は華頂峰(かちょうほう)、仏朧峰(ぶつろうほう)、唐渓峰(とうけいほう)の三つの峰からなっており、それが不思議にもオリオン座の三つ星に相対しているところから、天台と名づけられたのだそうであります。よって天台宗では三諦章(さんたいしょう)といって、宗旨の紋章に三つ星を用い、「一隅を照らす運動」のシンボルマークにもこの三つの星が用いられ、バッヂにもなって皆さまの胸につけられているわけであります。


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 宗祖大師のご事蹟にたどるみ教え


 さてそれから四百年ほど後になって、わが宗祖伝教大師がお出ましになり、天台大師のおしえを受け継がれて、比叡山に日本の天台宗を開かれたのでありますが、中国の天台宗と日本の天台宗とは同じ法華経による宗旨ではありますが、国民性の相違や時代と環境によって、その内容がちがっているといわなければなりません。   

  出生と出家

 伝教大師はこ承知の如く今から千二百年ほど前の称徳天皇神護景雲元年(仏1332・西767)八月十八日に、近江国滋賀の里の領主三津(みつ)の首浄足(おびときよたり)公の一子として生れ、幼名を広野(ひろの)と申されました。十二才の時近江国分寺の行表(ぎょうひょう)国師に従って出家し、十四才の時太政官の許可をえて剃髪得度され、法名を最澄と名づけられたのであります。さらに十九才の春四月六日に東大寺の戒壇にのぼり、二百五十の戒を受けられて始めて一人前の僧になられたのであります。当時の僧侶は官職でありまして、その数も限られており、欠員がなければ僧侶になれず、また厳格な修行と勉学の上、すぐれたもののみが選ばれることになっていました。故に若き最澄上人の前途はまことに洋々たるものがあったのであります。しかし最澄上人は僅か四ヵ月後には、奈良の都を捨て、故郷の比叡の山深く踏み登って、草の庵を結び、勉学と修行に励まれることになったのであります。   

  比叡にこもられた動機

 この若い僧最澄が、華やかな奈良の都と栄達の途を棄てて、人跡稀な深山に、孤り淋しく篭(こも)られた理由は何んであったでしょうか。一般には道鏡や玄ム(げんぼう)によって代表されるような僧侶の横暴、堕落、仏教の頽廃(たいはい)を嘆いて、華麗な七堂伽藍(がらん)を後にされたのだろうといわれています。勿論それも最大な原因であったでしょうが、当時の世相もまことに混乱しておりまして、皇太子早良(さがら)親王の配流、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱、道祖(ふなど)王の廃太子、藤原仲磨(恵美押勝)の乱、橘奈良麿の乱というように戦乱と殺戮の物騒な巷(ちまた)であり、その上蝦夷の乱ということもあって、桓武天皇が遷都を決意されなければならないほどの擾乱(じょうらん)が相続いていたのであります。鋭い感受性をもっていられた若い最澄上人にとっては、奈良の都の前途を見透していられたためでもありましょう。   

  願 文

 しかし上人の決意の大きな原因は、そうした外部的なものよりは、熱烈な求道心からの内面的なものであったのであります。そのことは入山後問もなく仏道修業の決意を表明した「願文(がんもん)」を書いていられます。六百字足らずの短い文章でありますが、「悠々たる三界は、純(もっぱ)ら苦にして安きことなく、擾々(じょうじょう)たる四生(ししょう)は唯患(うれ)いて楽しまず。牟尼(むに)の日久しく隠れて、慈尊の月未だ照さず……。」
 という書出しで、若い最澄上人の純真な力強い理想と反省に燃えるような求道心を流麗な文で綴られているのであります。全文についてのべるいとまがありませんが、かいつまんで申せば、まず痛切に世の無常を観じ、人の身の受け難く、生命の尊さを懐い、自らを反省して愚か者の中の最も愚者で、どうにもならない最低の人問として自らを鞭打ち、善因楽果、悪因苦果の理法に逆(そむ)くわけにはいかない人間は、短い一生の間、寸陰を惜んで、なすべきことをなし、進んで世のため、人のために尽さねばならない、それには五つの誓をたて、刻苦勉励しようとのべていられます。その五つの誓いとは、
  一に自分の修行が完成しない間は、他人を教化するなどは考えまい。
  二に仏のさとりに近い修行が積まなければ、修行以外の世問的な芸ことや医術には一切携わるまい。
  第三は修行が積まない問は、信者の法会に臨んで布施供養は受けまい。
  第四は一切の執着がとれないうちは、世事にかかわりあうまい。
  第五は自分が修行し、勉学することは、自己のためではなく、人のため、世のためであって、あらゆる人々を仏の道に導びこう。
 そして、この五つの願が成就したなら、この喜びを世の人々にわかち与えて、ともども国のために尽し、この世限りではなく、未来永劫この精神を貫いてまいりたいという大誓願でありまして、絢爛(けんらん)たる七堂伽藍の奈良の都を棄て、比叡の山に篭られた動機が、強い自己反省と熱烈な求道心にあったことがうかがわれるのであります。   

  一切経の書写

 若い最澄上人は山に篭られてからは、まず仏教全般に亘る研究の必要から、印刷術のなかった当時のこと故、七千巻からある一切経の写本に取りかかられたのであります。これは容易ならぬ難行でありまして、不撓不屈(ふとうふくつ)の強固な精神がなければならない大事業でありました。しかし幸いにも上人のお徳を慕ってきた弟子たちや、奈良七大寺の僧たちの援助、特に武蔵の国の道忠禅師(どうちゅうぜんじ)―鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟の協力も得て、上人三十二才、十年余の歳月をかけて完成を見ることができたのであります。   

  一乗止観院の建立

 その間、上人二十二才の時に寺の建立にとりかかり、
  阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさみゃくさぼじ)の仏たち
    わが立杣(たつそま)に冥加(みょうが)あらせ給へ
と詠まれて、諸仏に祈願をこめていられますが、和歌に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)、即ち「この上ない、すぐれて、正しいさとり」の意味を外国語で歌い込んだのは和歌としては始めてのことで、しかも字余りの歌であるところから察して、若い上人がいかにおおらかで、大胆であられたかという側面がうかがわれるのであります。
 落成した寺を比叡山寺と称し、一乗止観院とも名づけられました。これが現在の根本中堂であります。後に嵯峨(さが)天皇から延暦寺という寺号を頂いたのでありますが、年号を勅命によって寺名にした最初のものであります。ご自分で等身大のご本尊薬師如来を刻み安置され、灯明をかかげて、かの有名な
  明らけくのちの仏のみ世までも
    光つたへよ法のともしび
と詠まれていますが、これが今でも根本中堂に不滅の灯明としてかがやいているのであります。一乗止観院の落成は延暦十二年(仏1358・西793)の末でありましたが、その落慶の法会には諸大寺の大徳が列席し、桓武天皇の行幸も仰いで盛大に行なわれました。その他日頃の研究を発表する「法華十講」、また「高雄の講経」など、数々の大事業や研鐙にいとまなく、天台宗門建設の基礎を築いていられたのであります。その超人的な努力奮闘は驚くべきもので、私ども凡人にはとうてい想像の及ばないものがありました。   

  法を求めて唐に渡る

 最澄上人は延暦二十一年(仏1367・西802)正月十九日、お年三十六才で、比叡の山に篭られてから始めて山を下って高雄山寺に出られたのであります。これは和気清麻呂の子弘世(ひろよ)、真綱(まづな)兄弟の請によって、天台大師の三大部の講義をされるためでありました。この講義は七月中旬から九月上旬まで続けられ、奈良の諸大徳や朝廷の重臣たち多数が聴講し、非常な好評でありました。この模様は詳細に皇太子―後の平城(へいぜい)天皇―に報告され、天聴にも達したのであります。天皇は九月七日に和気弘世を召されて、新しい国家政策にともなう革新的精神教化を望んでいられたので、天台のおしえを世に弘めたいと思召されて、その旨を伝えられたのであります。上人は弘世と協議の結果天台のおしえを弘める決心を強くされたのであります。それには鑑真和上が持って来られた書物では足りないものがあり、あっても誤字、脱字があって意味が十分とれない点があることと、いままでは独学でありましたから、おしえに対する確証を得る師がないため、桓武天皇に法を求めるため唐に渡りたいことを願われたのであります。延暦二十一年(仏1367・西802)九月十二日に渡海のお許しがでたのであります。しかしそれは留学生(るがくしょう)ではなく、還学生(げんがくしょう)といって永く留ることなく、すぐ帰ってまいれというご命令でありました。翌年四月十四日遣唐使の第二船に乗じ、十六日に灘波を出帆して九州に向かわれたのでありますが、途中船が難破し、第二船のみが九州にたどり着き、再度出航準備のため、そのまま九州に滞留すること一年三ヵ月、翌延暦二十三年(仏1369・西804)七月、遣唐使の第二船に乗じて、肥前の田浦港を出帆されたのであります。風濤のため難航を続けて九月一日に明州の寧波府(にんぽう)に到着されたのであります。
 それから天台山に赴かれ、天台大師直系の諸大徳から天台の奥義を伝受し、たくさんの経巻を書写し、併せて当時中国に行なわれていた禅や、律や、真言密教も伝受されて、延暦二十四年(仏1370・西805)六月に対馬から長門へと帰着されたのであります。これをもって上人は正式にかつ完全に天台の教を伝えることができたとともに、真言、禅、戒の三宗を合わせて伝えられたことになります。特に真言密教に関しては、その年の九月には既に高雄山寺において、日本で最初の密教儀式である灌頂(かんじょう)を行なっていられます。   

  天台宗の公認

 ところが、まだ比叡山の天台宗は公認された宗旨ではなかったので、弟子を養成しても一人前の僧になるには、奈良のいずれかの寺に属していなければならなかったのであります。そこで天台宗独自の僧を年に二人ずつ、得度させて頂きたいと朝廷に願い出られたのでありますが、さいわい奈良の反対もなく延暦二十五年(仏1371・西806)正月二十六日上人お年四十才で、勅許が降りたのであります。これをもって天台宗が公認され、独立宗門になった日とされています。
 以上かいつまんで天台宗の開立まで、最澄上人の半世のご努力を拝察いたしたのでありますが、これまでは桓武天皇のご庇護、奈良の諸大徳の援助、弘法大師との親交等があって、ご苦労の甲斐があり、順調に進んだのであります。しかしそれからはおしえの内容をはっきり表明されるとともに、法華経による大乗仏教確立のために孤軍奮闘、荊棘(いばら)の道を歩かれ、その上健康も勝れず、文字通り死闘を続けられたのであります。

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  法華経の内容

 最澄上人のご精神を申上げるには、先ず法華経とはどのようなお経であるかということからお話をしなければならないと思います。法華経とはつぶさには『妙法蓮華経』と申して、八巻二十八品六万九千九百七字からなっているお経であります。品とは今の書物では章にあたります。天台大師はこの二十八章を大別して、前半の十四章を迹門(しゃくもん)といい、後半の十四章を本門と分けていられます。    

   (1)法華経の迹門

 では迹門には何が説かれているかと申しますと、お釈迦さまがさとりを開かれてから四十五年の間、病によって医者が薬を投ずるように、人々の知識の程度、性格や感情の相違に応じて、それぞれに理解できる説法をされたのでありますが、浅きから深きへと、低きより高きへと、だんだん教え導いて最後にお釈迦さまのおさとりのぎりぎりを説かれたのが法華経であることをあかされています。お弟子の方からいっても、声聞(しょうもん)といって忠実にお釈迦さまの説教を聞き守っている、例えば先生や学者の講義を聴いて勉強している学生や、また縁覚(えんがく)といって独りで自然を観察したり、思索にふけって勉強している人がありますが、これらを二乗(にじょう)といって、自己の完成を目的としている人々であります。しかし菩薩(ぼさつ)といって、学問や技術を磨いて世の中のために役立て、勉学と実際の働きが一致している人があります。前の二乗に加えてこれを三乗と申します。ところが法華経は後の菩薩のために説いたお経でありまして、前の二乗の人々も既にお釈迦さま四十年の教育によって、すっかり菩薩の域に到達していて三乗の区別がなくなってしまったので、法華のおしえを一乗のおしえというのであります。法華経に「ただ一乗のみあって、二も無く三も無し」といわれています。このことを法華経の譬喩品(ひゆほん)第三には、三車火宅のたとえによって説明されています。    

   (2)三車火宅の喩

 ある処に長者というから富裕な人があって、三人の子供をもっておりました。ある日長者が留守の間にその大邸宅が突然火事になり、炎々と燃え上がる中で、三人の子は火事の恐ろしさも、身に迫る危険も知らずに遊びに余念がなかったのであります。帰宅した長者は驚いて子供たちに早く逃げ出すよう叫び、おどしても一向に聴き入れる様子がありません。仕方なく日頃ほしいと親にせがんでいた長子には羊の車、次子には牛の車、三子には鹿の車が、門前に用意してあるから早く行ってごらんと呼びかけました。子供たちは待ちこがれていたそれぞれの車が貰えるというので、喜び勇んで門外に走り出たのであります。しかしいわれた三車はありませんでした。その代りに大きな立派な白い牛の車が用意されていました。これを大白牛車(だいびゃくごしゃ)といいますが、子供たちは自分が予期していた以上の立派な車が用意されていたので、おどり上って喜び、一緒に仲よく乗り込んだと説いてあります。よく言われる「三界は火宅の如し」とか、「嘘も方便」とは、この喩話(たとえばなし)から出たものでありましょう。ここで乗(じょう)ということについて、一寸説明いたしますと、乗とはのり物で車のことであります。ただ乗っかるだけではありません。乗って走らなければなりません。この頃の都会の街路のように走ったかと思えば止っているのろのろ運転ではなく、此処から彼処へとまっしぐらに進んでいて一時の渋滞も許さないことであります。つまり菩提(さとり)を求めて、仏への道を休みなく進んでいる状態で、これを精進(しょうじん)と申します。
 この喩話は三人が自分勝手な好みに応じて、それが最上のものだと思って求めていたが、結局は一緒にともども喜び合える一つの、しかもより立派なものが平等に得られたことをいったもので、仏のおしえには種々様々あるが、それは法華のおしえへ導く方便で、
  雨あられ雪や氷とへだつれど
    とくれば同じ谷川の水
というように最後は法華の教に帰一することを説いたものであります。    

   (3)法華の本門

 次に後半十四章の本門にいたって、仏とは何ぞやという本質の問題が説かれています。二千五百年前、お釈迦さまが印度―実はネパール国―にお出ましになり、王城を出られて苦行六年の後、尼連禅河(にれんぜんが)のほとり、ガヤの菩提樹の下で、端坐冥想(たんざめいそう)して、十二月八日、暁の明星を眺めて始めてさとりを開かれ、仏になられたことになっております。しかし法華経の本門では、肉身の釈迦が突然この世に出られて、自分から発心(ほっしん)して始めてさとりを開き仏になられたのではなく、五百億塵點劫(じんでんごう)という数え切れない遠い昔、つまり始めのない過去から既に仏になっていられたので、世を救うためいま仮りに姿を現わされたものであることを説いてあります。しかもその遠い昔から絶え間なく、何億何千万の仏となって、同じように法華のおしえを説いていたことをあかしております。つまり法華のおしえのご本尊は、お釈迦さまであり、かつその前身である何億何千万の仏を通しての久遠(くおん)の本仏であります。このことは法華経の中心をなすおしえで、また天台宗のおしえの根本思想であります。
 お経の文句を文字通り読み取ると、まるで夢のようなおとぎ話に受取られ、理解し難いと思いますが、これは宇宙の根源、或は生命と申しますか、不変の真理を久遠の本仏といったのであります。永遠の過去から、悠久の未来へと宇宙の大生命は変わらずに、いたる処に活動を続けているのであります。私どもがその大生命にふれることは、私どもの眼前に展開されているあらゆる現象に目を注ぐことであります。太陽が照り、風が吹き、雨が降り、空気を吸っている私どもはみな等しく、大きな宇宙の温い生命に抱かれて生きているのであります。このことに思いをいたす時に、
 溪声(けいせい)すなわちこれ広長舌―仏の説法―
  山色あに清浄身(しょうじょうしん)―仏―にあらざらん。
というように、とうとう落ちる瀧(たき)の音、軒からしたたる雨だれの音も、松吹く風の音にも釈迦の大説法があり、また
  おもしろや散るもみぢ葉も咲く花も
    おのずからなる法のみすがた
で、山川草木の姿に仏のみ相(すがた)を拝することができるのであります。法華経の寿量品(じゅりょうほん)には、「われ常に霊鷲山(りょうじゅせん)に在って法を説いている。」とあり、また「常にここに住して説く。」とか、「常にここにありて滅せず。」とも申されていますが、釈迦の大説法は何時でも、何處にあっても聴くことができるのであります。ただ私どもは老人のように目はかすみ、耳が遠くなって、見ることも、聞くこともできないでいるのであります。そして一たんさめれば、
  雲はれて後の光と思うなよ
    もとより空はありあけの月
というように、世の中の凡てのものが、そのまま仏の世界となるのであります。私ども個人にとって見ても、私どもは目先の我欲にかられ、宇宙の生命の恩恵を忘れて、毎日の生活に苦しみ悩んでいるのであります。これを平面的な生活と申すなら、もっと立体的に奥深く心を向けて、久遠の本仏の尊さを感ずれば、すべてのものがそうであるように、自己の尊さが感ぜられ、仏と自分とが一に融合し、自分が仏であるという自覚が得られるのであります。天台宗では自分の心が弥陀であり、自分の身体がそのまま浄土であるといっております。
 近頃人間尊重とか人間回復ということが叫ばれています。科学の高度の発達と、生産の向上は、物質偏重となり、いまや人命さえ脅(おびやか)し、人類、いな生物一般の滅亡さえうれえられている有様であります。これは近世西洋の思想が、教育に、政治に、経済にあらゆる方面に浸透し、とくに終戦後における民主主義の普及は、在来の日本の思想は固陋(ころう)なもの、封建的なものとして吟味することなく、何でもかんでも捨て去られた結果であります。
 西洋思想の根底をなすものはキリスト教の思想であります。旧約聖書の「創世紀」には、
  「神は自分のかたちに人を創造された。神のかたちに創造し、男と女に創造された。神はいわれた、生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這(は)うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたの支配に服し、生きて動くものは、あなたの食物となるであろう。」
とあり、十七世紀のフランスの哲学者デカルトは、「人間のために世界はある。」といって近世哲学の祖とまでいわれ、西洋思想の基礎となった人でありますが、こうした西洋思想が、人本主義、人道主義を築いたのであります。つまり人間のためなら、あらゆるものが犠牲となってもよいという考えであります。人間の欲望を伸ばすためには、自然を破壊し、征服していくのが、人間に与えられた特権のように思っているのであります。その結果は今日人々が悩まされている公害問題であり、自然の破壊問題であります。緑だけの問題をとらえても動物と植物の関係は一対二五〇〇であるといわれ、植物が動物の生存に必要な酸素や有機物を供給していることは申すまでもありませんが、さらに広葉樹林は年間一ヘクタールあたり六八トン、針葉樹でも三ニトンの空中にある塵埃(じんあい)を吸着し、有毒物を合めて土壌に還元する浄化作用を行なっているとのことであります。しかるに尼崎市などでは、こんもり茂っていた鎮守の森に、今では僅か二本の夾竹桃(きょうちくとう)が残っているに過ぎない有様であるといわれています。このまま進めば人間も生存ができなくなるのではないでしょうか。人間は自らの首を締めている状態であります。西洋思想をまる呑み込みにした我欲の高度経済成長は、このようなみじめな状態に追いやったのであります。法華のおしえは草にも、木にも仏性があることを認め、敬愛の念を注ぎ、すべてのものを生かしていくおしえであります。なぜこのような深い思想が古来日本人の心に植えつけられているのに気付かないのか残念でなりません。    

   (4)法華のおしえに相応した日本

 以上法華経に説かれるおしえのほんの一部をお話したのであります。そしてこの法華経が仏教の最高のものであり、仏のおしえの終局であることは、天台大師が主要な著書である法華玄義(げんぎ)、法華文句(もんぐ)、摩訶止観(まかしかん)の三大部三十巻の著書によって詳細に説明されており、最澄上人がそれを勉強されて法華経による天台宗を日本に弘めようと決心されたのでありますが、しかしこれを受入れる民衆が余りに高度のおしえで理解できなければ、いくらすぐれていても、立派であっても高嶺の花に過ぎないことになります。印度においては偉大なお釈迦さまですら、この法華経のおしえを説くまでには四十余年の準備教育が必要であったのであります。中国においても天台大師が、法華経の最高であることを説明するのに、先ずそれ以前のおしえとの比較や、声聞、縁覚の二乗が菩薩の一乗にとけ込む道筋の説明に大きな努力をされたのであります。ところが最澄上人は、日本民族はその精神文化において高い教養があり、法華経を理解する能力をもった民族であることを確信されたのであります。古来日本人は民族信仰として、太陽を始め山、瀧、大木、その他自然そのものを神として畏(おそ)れ、崇(あが)めてまいり日常生活に必要な道具や食物にも御の字をつけて、有難くおし頂いてきた敬虔(けいけん)な民族でありました。したがって法華経の精神を素直に受入れられる素質があることを知っていられたのであります。
 また既に二百年ほど前に、和国の教主といわれた聖徳太子が、法華経を信奉され、その講義を書いていられますし、奈良朝になってからは、全国に法華尼寺が国分寺と並んで建てられ、法華経が広く普及されていたこともあります。またお釈迦さまが入滅されてから千八百年もたって世が末法になり、仏のおしえが失われていく時代が来るが、その時こそ法華経の弘まるときであることが、お経の中に予言されていますので最澄上人は今こそその時であり、法華経を弘めるのは自分であるという強い使命感と固い信仰をもたれたのであります。そして聖徳太子もお考えになっていた日本の国は大乗(法華一乗)のおしえが理解され、普及されるに相応(ふさわ)しい国であることを固く信じられたのであります。
 それによって初めて「大日本国」という言葉を使われています。これはかって軍国主義者が唱えた大日本国ではなく、また現在自負している経済大国という空いばりの大日本国でもなく、高い理想をかかげた大乗のおしえが弘まる国という意味で使われ同時に当時世界で最もすぐれた文化をきずいていた大唐国にまけぬ立派な国にしようというお心があって、大日本国といわれたのであります。

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  四宗融合と神道

 最澄上人が唐に渡り天台のおしえを完全に伝受されるとともに、真言、禅、戒の三宗も兼ねて伝えられたことは、前に述べた通りでありますが、このお心持ちは法華経が説く萬善同帰(ばんぜんどうき)の一乗のおしえによるものであります。
  わけのぼる麓(ふもと)の道は多けれど
   同じ高嶺の月を見るかな
という古い歌がありますように、また江戸末期に排仏毀釈(はいぶつきしゃく)を唱えた服部天遊の「赤ララ(ラは原文は「にんべんに果」字)」という書物にも、
  「法華は併包を主とす。併包は含容、寛大、王者の気象なり。」
といっているように、あらゆるおしえを包含し、またあらゆるおしえの究極でありますから、天台宗のおしえの中に、大乗のおしえはすべてとり入れられたのであります。このお志をついで第四祖慈覚大師は、念仏門を唐から伝えられ、比叡山の横川(よかわ)を中心として念仏が盛んに行なわれるようになり、後に恵心僧都(えしんそうず)のような偉い人が出て、念仏門を大成されたのであります。その流れを汲んだのが法然(ほうねん)上人であり、親鸞(しんらん)上人であります。浄土真宗の開祖親鸞上人は、「浄土和讃」の中で、
  「山家ノ伝教大師ハ、国土人民ヲアハレミテ、七難消滅ノ誦文ニハ、南無阿弥陀仏ヲトナフベシ」
といわれていますが、最澄上人のお志にそって念仏の法門を開らいたようにいわれています。その他禅宗の道元(どうげん)禅師、栄西(ようさい)禅師や、日蓮宗の日蓮上人も、ともに最澄上人のおしえを受けつがれて宗旨を開かれたのであります。故にただいま各宗それぞれ違ったおしえを説き、違った法門のように思われていますが、その元は天台の法華一乗に帰するものだということができます。
 また日本には古来民族固有の信仰として神をまつる風習がありました。これは自然宗教で、祖師もなければ、教条もなく、ただ自然を畏れなだめ、或は英雄、偉人をまつって神として、災難を除き、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈っていたのであります。最澄上人も敬神に篤い方でありまして、ご事蹟には神祗(じんぎ)に関することが多く出てまいります。まずご出生の物語に、ご両親が日枝の社に参篭(さんろう)祈願され、授ったのが上人であるといわれています。唐に渡られるとき住吉大神、吉野の金嶽明神に海路平安を祈られ、九州に滞在中は、宇佐大神、香春(かわら)大神に祈願されお経を講義されています。また東国巡教の折は、諏訪(すわ)明神に詣でていられます。
 このように神さまを大切にされたことは、やはり法華一乗の精神からでありまして神の本地は、法華の久遠の本仏で、仮りにこの世に出られた権現さまで、世を救い、民を護っていられるもので、いわゆる本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)を唱えられたのであります。故に天台宗では法要の際は、諸仏諸菩薩を礼拝すると同時に、必ず天照大神、天台宗の守護神である山王権現(日枝神社)諸神祗特にその土地の鎮守を礼拝することになっています。このように最澄上人は何等の矛盾もなく、日本古来の神道も天台のおしえの中に包含されたのであります。
 最初に申した天台宗のお寺は、寺々によって本尊さまが違っていても、檀徒の方々の信仰の形式が違っていても、一向差支ないことがおわかりになったことと、存じます。ただ最後は法華のおしえに帰着するものであると信じているわけであります。   

  一乗三乗の論争

 最澄上人は法華一乗の純大乗の教を主張せられ、着々と地歩を固めていられましたが、奈良仏教、とくに法相宗等は純粋な大乗でなく、大乗に至るまでの教で、まだ小乗がまじっているという上人の見解に対して反論が出るのは当然でありました。そのきっかけは、弘仁六年(仏1380・西815)秋に和気真綱(まづな)等の請(こい)によって奈良の大安寺においてたくさんの高僧や学者の前で、法華一乗の講義をされたが、三乗教をたて前とする法相宗の人々から激しい反対がありました。それ以来法相宗との論争が続き、日本思想史上稀に見る大論争となり、上人は貴重な本をたくさん書いて闘われたのであります。なかにも東北会津の徳一(とくいつ)法師という学問もあり、多数の寺―現在残っている寺だけでも三十数ヶ寺―を創立したほどの徳の高い法相宗の僧との学問上の論争が、七年間も続けられたのであります
 そのため徳一法師は七十余巻の本を書いていますが、上人もそれに劣らぬ大部の本を書き、ついに弘仁十二年(仏1386・西821)「法華秀句」三巻を書かれて、この論争は徳一法師の黙するところとなったのであります。
 ではこの論争の内容はどんなものであったかということをお話するのは、やがて天台宗のおしえ、とくに最澄上人の日本天台宗のおしえの全体に亘ってお話することになりますが、何しろ七年間、大学者相互が五、六十巻の大部の書物を書いて応酬されたのでありますから、ここでお話することはとうていできないことであります。十分意を尽せないと思いますが、簡単に申しますと、徳一法師の主張は、お釈迦さまは声聞、縁覚、菩薩の三乗に対してそれぞれ相応した教を説かれました、教を受けた三乗は、それ相応のさとりを得て、中には天性さとりを得られないものもあるというのであります。よって教にも大乗、小乗があり、大乗の中に小乗が混っているべきだと主張したのであります。これに対して最澄上人は法華のおしえは既に三乗の区別がなくなっており、人間の本性は平等で、何人(なんびと)も同じように大乗のさとりが得られるものだと一乗のおしえを主張されたのであります。
 天台からいえば、小乗、二乗の人々のさとりは、この苦しみ、汚(けが)れの世をのがれるためのみ身をつつしみ、真剣に修行を積んで個人的なさとりを完成するのが目的であるというのであります。しかし大乗即ち一乗の人々のさとりは、人間の本性は勿論、世の中のあらゆる本質は平等であり、世のために生かされている自分は、自分であって自分ではないから、自ら努め、励むことはそのまま世のためであり、人のためでなくてはならない、したがってこの世が浄土であり、進んで浄土にしなければならないと考えるのであります。全く両者並行線を辿(たど)っているので、果てしがなかったわけであります。   

  地方巡教

 このように最澄上人は次々と学問上の書物をたくさん書いたり、弟子養成の規約を制定したり、堂塔の建設に多忙の日々を送っていられましたが、しかし法華のおしえに説かれる世のため、人のために尽くす大乗の精神を、身をもって実行しなければ意味がないのでありますが、世のため、人を導く教化の実際方面にも努力されたのであります。
 弘仁五年(仏1379・西814)春、お年四十八才、さきに唐に渡られる際に一年有余滞在して、渡航の無事を宇佐八幡宮や香春神社等に祈願されましたが、その礼参りに九州へと旅だたられたのであります。一年間に亘って各地の神社仏閣を参拝し、当時文化の中心であった北九州に法華のおしえを弘める拠点として宇佐八幡宮内に宝塔を建てられ、法華経一千部八千巻と大般若経千二百巻を納められたのであります。これは全国に、国を鎮め、民を済(すく)う御志から法華経を普及させるため、文化の栄えていた地方六ヶ所に宝塔を建てようという計画の一でありました。そして宇佐八幡宮に千手観音の尊像を刻んで奉納し法華経の講義をしていられます。この時の物語に、八幡宮の神さまはその講義に感動され、紫の袈裟(けさ)と衣を賜わったといわれています。いまその袈裟が比叡山の根本中堂の経蔵に納められているといわれています。
 また香春明神に参拝されましたが、ここは上人が唐に渡られるときにも海路平安を祈られたところで、そのとき山麓に法華院を建てられ、法華経を講義されましたが、そのご利益によって石ころだらけの不毛の香春山に草木が生い茂げるようになったと伝えられています。
 それから唐から帰られたときの話でありますが、上陸されたところが、豊前の花鶴の浜でありますが、まず天台の教を弘めるため寺を建てる場所を捜されました。それには唐から持ち帰られた鏡と獨鈷(とっこ)を空高く投げられました。この二つは光をはなって飛び去りましたので、上人はそれを追って二神(ふたかみ)山近くまでまいりましたが、遂に見失ってしまったのであります。折しも狩りからの帰りの源四郎という村人に会ったのでここらに光ったものが落ちはしなかったと尋ねましたところ、
  「実は不思議な光ったものが空から落ちたので、恐ろしさに逃げ帰ったところであります。」
との答で、その場所へ案内させましたところが、大きな岩の上に鏡と獨鈷が落ちていました。上人は源四郎始め村人の助けを得て、そこに寺を建て、薬師如来を刻んで安置されました。その寺は今でも「獨鈷寺」としてあり、鏡も獨鈷も保存されています。
 上人は源四郎の親切の礼として毘沙聞天(びしゃもんてん)の像を刻んで贈り、横大路という姓を与えました。その上、天台山から持ち帰った火を分けてやり、
  「この火の消えない限り、火事にかかることはないであろう。」
と仰せられました。またその村には水が足らないのに困っていたことを知って、獨鈷で岩をくだき、清い水がわき出るようにされました。この清水はいまでも「岩井の水」といわれて、こんこんと清い水がわき出ているそうであります。また横大路家ではいまでもその火がかまどに四六時中絶えることなく、千百何十年という永い間燃え続けているそうであります。そして横大路家では代々男子が生まれ、一度も血統が絶えたことがなく今日まで四十三代続いているとのことであります。
 前の香春山のお話にしても、法華経が教える仏の慈悲が草木にも、人々にも、平等に働いていることを如実に現わしたものであり、いかに上人が世のため、人のために身をもって努力されたかというご事蹟の一端であります。こうして九州の地に天台のおしえが弘まる基礎をつくられ、翌年三月比叡山に帰られたのであります。
 さらにその年奈良大安寺の講義をすまされてから東国の教化に旅立たれたのであります。近江の国から美濃路(みのじ)をたどられ、信濃に入られたのでありますが、そこには急な坂路十里に、宿舎も休息所もない最大難路の信濃坂がありましたので、旅人にとっては非常な苦しい難所でありました。最澄上人はその峠の美濃側に広済(こうさい)院、信濃側に広拯(こうじょう)院という寺を建てられ、旅人の宿泊や休息のできる施設をつくられました。
 それから関東にはいられ、上野国緑野郡の浄土院に着かれ、そこに多宝塔を建て、法華経一千部八千巻を納め、法華経の講義をされました。伝記によりますと聴講の人人は百千万に及び、非常に感激を与えたといわれています。それよりさらに下野に出られ、小野の大慈寺にいたって、この寺にも六所宝塔の一である多宝塔を建立され、法華経一千部八千巻を納め、毎日法華経の講義をされたのであります。
 このように東国に広くおしえを弘められる拠点を要所々々に築かれたのであります。翌弘仁七年(仏1381・西816)二月に比叡山に帰られました。
 後世天台宗は山林仏教で、世の中からかけ離れた学問と修行にのみ励み、玉体安穏(ぎょくたいあんのん)と国を護る祈祷(きとう)をしている貴族宗教のようにいわれていますが、最澄上人のこうした広く東西に亘ってのご巡教と、世の人々の福祉のためのご苦辛は、必ずしも山にのみ篭っている宗教でないことを身をもって範をお示しになっていることでわかると思います。   

  籠山修行のさだめ

 しかし最澄上人は「学生式(がくしょうしき)」で、十二年間山に篭って修行することを定められました。これは国を護り、世の人々を導く指導者になるには、人々にまさる修行と勉学が必要であることは申すまでもありますまい。そこで十二年間は山に篭って、勉強と修行をしなければならないとお考えになったのであります。今の教育でも普通の社会人となるには、小学校から高等学校終了まで十二年を要します。まして法華経の精神を体得した国宝的人材を養成するには、十二年位、一心不乱に修行に励む必要があることは当然であります。そして立派な指導者が養成されたなら、その人たちによって、世を救い、人々を導いて、国中に道心ある人、即ち君子が満ち、永久に絶えることなく国が栄えることを願われたのであります。山修山学を定められたからといって、決して山林に隠棲(いんせい)し、独善的な宗教生活を目的とされたのではないのであります。   

  小乗戒をすて大乗戒を建てる

 かくして上人は法華のおしえを全国に弘め、かつ比叡山には人材養成の制度や設備を着々と進めていられたのでありますが、ご自分はまだ十九才のとき奈良東大寺の戒坦(かいだん)で受けられた小乗二百五十の戒を守っていられたのであります。しかし法華のおしえが僧侶も在俗の人もおしなべて平等のおしえであり、菩薩とは君子であり、理想的な一般人であることから、大乗には大乗の戒があるべきだと考えられたのであります。よって弘仁九年(仏1383・西818)春、弟子たちを集められて、仏教史上今までにない劃期的(かっきてき)な宣言をされました。
  「今日から以後、小乗声聞の戒律を受け持たないことにする。永く小乗の戒律にそむくであろう。」
といわれて、今まで大乗の精神で小乗の戒を守っていられたのを捨て去られたのであります。このことは大変な英断であって、ある意味では僧侶の資格を失なうことになりますので、弟子一同は非常に驚いたのであります。
 そこで最澄上人はそれに代わるに、法華のおしえに最もかなった大乗の戒律を梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょう)による円頓菩薩戒(えんどんぼさつかい)というのを打ちたてられたのであります。上人は「その戒広大にして真俗一貫す」といわれているように、この菩薩戒は正しい生活をするには誰でも守らなければならない生活の規範であります。しかしこの大乗戒は最澄上人が勝手にあみ出したものではなく、さきに唐に渡られたとき、天台大師から伝えられていた円頓戒を、その直系である第七世道邃座主(どうずいざす)から授かった正統なのであります。
 戒律について申上げますと、律というのは盗んではいけない、殺してはいけないというように、外部から禁止される規則であります。戒とは自分の心のうちで、悪いことはしまいと決心することで、それが誓となり、願にもなるのであります。いままでの小乗の戒は、むしろ律に重きがおかれ、ああしてはいけない、こうしてはいけないと事細く二百五十もの条項が定められていたのであります。ところが大乗の戒は、他から制約されるのではなく、自分から悪いことはしまい、善いという善いことは励み行ない、心の汚れを洗い浄めようと、心から仏に誓うことであります。梵網経に
  「衆生は仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る。」
といわれていますが、戒を受けた瞬間に、自分の心にある仏が発見され、仏と同等の位になるのであります。正しい、安定した生活を送るには戒が基本とならなければなりません。何んら心に誓うことがなく、ただ目先の欲得や、身心の病苦をのがれたいだけの願から信心したところで、ご利益がはかばかしくなかったら、その信仰は何時の間にやら淡雪(あわゆき)のように消えてしまい元の木阿弥(もくあみ)となって、一層苦しい生活に陥ってしもうのであります。戒は固い決心と自覚でありますから、それを持ち続け、やり抜こうとするには、努力即ち修行が必要になってくるのであります。僧侶には激しい修行が必要でありますが、一般の人々には日常の生活に相応しい仏教徒としての修行があるわけであります。そして人間の心は
  心こそ心迷わす心なれ
    心に心心ゆるすな
といわれているように移り易く、また弱いもので、迷い易くもありますので、一度決意したことを、人々の前に表明しておくことが必要であります。それが受戒の儀式であります。
 戒師の前で戒を受け、仏に誓い、自分が戒を受けたという確信を得、戒師が受戒の証人になるのであります。天台には受戒会(じゅかいえ)といって、天台のおしえの正統を伝えている天台座主猊下(ざすげいか)から、直接円頓戒を授かる大切な儀式があります。しかしこれは戒師から授かるのでありますが、しかし戒師を通して法華本門の本仏が戒を授けるのであって仏の真理と智恵と慈悲の一切の徳を受け、既に私どもは本来救われている自覚をもちその恩徳を感じ、今日、この生活を有難く思い、世の中のために努力しようという心が沸いてこなければなりません。どうか、天台宗の檀信徒の方々は天台座主猊下のご親教の折には一人ももれなく受戒をして頂きたいと存じます。また一度受けた方でも何度受けられてもよいことで、よりさらに新たに決意を固めることになりますから。   

  三聚浄戒

 最澄上人は法華の思想を基として梵網経によって大乗戒をたてられたのでありますが、その戒は十重四十八軽戒(じゅうじゅうしじゅうはちきょうかい)と申して、重要な戒が十、軽い戒が四十八あります。いまこれらを一々挙げて説明しているいとまがありませんが、受戒してからの信仰生活の規範に三聚浄戒(さんじゅじょうかい)というのがあります。つまり大乗戒の要約であると考えてよいと思います。それは摂律儀戒(しょうりつぎかい)、摂善法戒(しょうぜんぽうかい)、摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三つであります。
 摂律儀戒とは悪をとどめる意味でありまして、身を修めつつしむことであります。俗人なら五戒をたもつことであります。五戒とは一に生物を殺さないこと、これはあらゆるものの生命の尊さを知って、自分にくらべて、他を殺さない、殺させてはならないということで、積極的にはすべてのものを生かしていくことであります。
 二には盗みをしないこと、他人のものを盗むのは罪悪であるということは誰でも知っています。しかし財物を蓄えたいために手段を選ばないで、他人に迷惑をかけるのも一種の盗みであります。また財物を独占して、困っている人を顧みないのも盗みになります。そこで仏教では布施(ふせ)ということをやかましくいいますが、困っているものを助け、他人をよろこばせることは、自分のよろこびとなるわけで、こうした人を菩薩といい自利々他を行なう人をいうのであります。
 三にはよこしまな男女の交りをしないこと、情愛は人生の最大の問題で、社会の秩序をたもち、子孫繁栄のもととなる神聖な事柄でありますから、謹厳に守らなければならない規律であります。
 四に偽りをいったり、行なったりしないこと、人間はなかなか真実を語り、正しい行ないをすることは難かしいことでありますが、強い決心と自覚が必要で、勇気がなければなりません。それには心の奥に固く仏に誓わなければなりません。
 五に酒を飲まないこと、このことは日本の風習やまた寒い国の人々にとっては抵抗を感ずる規律でありますが、インドのような熱い国では飲酒は害があり、現在でも禁酒が励行されて、旅行者は特別に許可証をもらい、量が制限されています。しかしこの戒をたもつことによって、よしんば酒を飲んでも、失敗したり、他人に迷惑をかけたり、自らの健康を損ったりしないように自制力を持つことであります。これを広い意味に解釈すれば、常に心身を平静にたもち、正しい行動がとれる状態にあることであります。以上を五戒と申しますが、一般人のたもつ大乗戒であります。
 第二の摂善法戒とは、善いことを進んで行なうことであります。さとりを得るためにあらゆる善を集めて行なわおうと決心する意味であります。いいかえれば、自分の心の安住をえて、積極的に自分の業務に全身の努力を捧げることであります。
 第三の摂衆生戒とは、世のため、人のためになることをしようと決心をすることであります。前の二つが自利なら、これは利他であります。最澄上人は菩薩を説明するのに、
  「悪いこと―都合の悪いこと―は己に向け、善いことは他に与え、自己を忘れて他のためにすることは最高の慈悲である。」
と申されておりますが、つまりよろこんで他人のため、社会国家のために働き、報を求めずに尽すことをいったのであります。
 どの宗教にも戒律はあります。キリスト教には彼の有名なモーゼの十戒があります。この十戒は初めの四が神のことをいい、第五に父母を敬え、第六、七、八、九に殺生、姦淫(かんいん)、盗み、虚妄(こもう)を禁じ、第十にまた貧(むさぼ)りのことをいっております。しかし自らを忘れて、他のために尽くせということはいっておりません。自分を律することは厳しいが、他を利することには触れていないのであります。仏教でいえば小乗の戒律で、大乗の戒律ではないということができるでしょう。つまり第三の摂衆生戒は大乗の特色を表わしているところであります。   

  大乗戒坦の建立運動

 最澄上人が小乗戒を捨て、大乗戒を守ることを宣言されたのは、奈良の六宗に対抗して、別に天台宗という別派を建て、自宗を拡大しようという小さな考からではなかったのであります。桓武(かんむ)天皇の遷都は国家の大改革でありましたが、天皇の上人によせられた期待は、旧来の精神や文化面の弊風(へいふう)を打ち破って、革新的新文化の樹立にあったのであります。故に上人にとっては天皇亡き後も、法華一乗の教を弘めることは先帝の御願(ぎょがん)によるところであると主張して一歩もゆずらなかったのであります。そして先帝の御願は、国を平和に鎮め、国を護らなければならないという思召にそって、国民の宗教をうちたてられたのであります。
 よって当時、奈良東大寺、筑前の観音寺、下野の薬師寺にあった三戒坦に登って小乗戒を受けなければならなかったのに対して、大乗戒を授ける戒坦を別に比叡山に建てる必要にせまられたのであります。結果においては完全な奈良からの独立でありましたから、奈良の六宗の僧たちは結束して強固な反対に出たのであります。そこで上人は「学生式」「顕戒論(けんかいろん)」三巻、「顕戒論縁起」二巻等の書物を書かれて、大乗僧の養成の組織計画、大乗戒の行なわれなければならない理由を学問的にのべられ、朝廷に奉ったのであります。
 これに対して学問的見地からの反論もあり、また、仏教各宗の総取締をしていた役所である僧綱(そうごう)は、当時の制度の崩壊を恐れて黙殺して取上げてくれなかったのであります。弟子の光定(こうじょう)はその使者として、天皇を始め各公卿に直々お逢いして頼んだり、天皇の御前で大乗のおしえのことや、顕戒論の内容について議論をたたかわしたり、また奈良に出向いて僧綱の僧たちに頼んだりして、東奔西走、席温まらぬほどの努力をしたのでありますが、なかなか許可は降りませんでした。
 とくに「顕戒論」については、公卿の中ではこれを読んで非常に感激したものもありましたが、大勢は如何ともすることができなかったのであります。後世には遠く唐の高徳の僧が、はるばる書を送ってきて讃辞をのべたほどの立派な書物でありました。しかし遂に奈良の僧綱は黙して何の答えも、反論もないまま三年の歳月が流れてしまったのであります。 伝教大師の遷化と大乗戒坦建立の勅許  しかるに最澄上人は永年のご苦労がたたってか、弘仁十三年(仏1387・西822)の春頃から病の床に臥せられ、五月にはいって弟子たちにそれぞれの役柄を申付け、毎日のお勤めの次第から、服装、経巻、書物の保管等一切に亘って細々といい渡され、
  「われ生れてよりこの方、口にあらい言葉はない、手に打擲(ちょうちゃく)したことがなく、いまわが同法よ、童子を打つな、童子を打たなければ、われにとって大恩人である。つとめて下され、つとめて下され。」
また、
  「わがために仏を作るなかれ、わがために経を写すなかれ、ただわが志を述べよ。」
といわれ、ついに
  「最澄心も身も久しく労して一生ここに窮まれり。」
という悲痛なお言葉を遺して、弘仁十三年(仏1387・西822)六月四日、比叡山中道院でお亡くなりになったのであります。お年五十六才でありました。昭和四十六年(仏2536・西1971)が恰度千百五十年に相当するわけであります。
 その七日後、六月十二日に大乗戒坦建立の勅許がありました。これは僧綱の反対を押切って、嵯峨天皇自ら独裁でお許しになったのであります。しかし戒坦院が建てられたのは、五年後でありました。いま少し早かったら、どんなにか最澄上人はお喜びになられたことでありましょう。しかしこのようなご苦辛のご遺徳によって千百五十年後の今日まで、私どもが有難い大乗のおしえに浴することができるのであります。いな、私ども天台宗にゆかりのある者ばかりではなく、日本仏教各宗の礎となられたのでありますから、日本の文化全体の母胎となられたのであります。
 比叡山に参詣される方は根本中堂や大講堂にまいられますが、大講堂の北側の小高い丘に朱塗方形造りの五間四面の小さな美しい御堂に目をとめられる方は少ないようであります。これが最後まで心血を注がれた大乗戒坦院であります。どうぞご参詣の折にはこのお堂にも立寄られて上人の痛ましいお志を偲んで頂きたいと存じます。   

  大師号のはじめ

 最澄上人が亡くなられて四十五年後、清和天皇貞観(じょうがん)八年(仏1431・西866)七月十四日、日本で始めて「伝教大師」という謚号(おくりな)が宣下されたのであります。これは上人の弟子で第三世の天台座主円仁和尚(えんにんかしょう)が、非常に偉い方であり天台宗を大成された方でありますので、清和天皇のご信任も篤く、遷化(せんげ)されたときに大師号を降さるご意向があったところ、その弟子の相応(そうおう)和尚が、宗祖である最澄上人にまずご宣下を願いたいと申上げたので、宗祖最澄上人に「伝教大師」円仁和尚に、「慈覚(じかく)大師」の号を賜わったのであります。「お大師さま」といえば弘法大師といわれていますが、弘法大師は亡くなられてから八十五年後、大師号を賜わっております。大師より遅れること、五十五年でありました。つまり日本最初の大師は伝教大師であります。


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 天台のおしえの実践

 いままでのべてまいりましたことは、宗祖伝教大師のご生涯を通して天台宗のおしえの概略をお話したのであります。しかし宗教は哲学ではないのでありますから、いくら教理がすぐれ、立派にととのっていても、所詮、それは理論に過ぎません。そのおしえを私どもの日常生活の上に実践し、おしえの目的が実現されなければ空理空論に終ってしまいます。そこで天台宗ではおしえを実際に、どのように行なっていったらよいかについてお話することになります。先ずさきにお話いたしました大乗戒を守り、実行することであります。   

  修行の心構―(1)一心三観

 それから天台宗の人生観といいますか、世の中に生かされている自分と世の中との関係についてはっきりした考えをもつことであります。
 私どもの心や身体を含めてあらゆる世間のものが、実際に存在していることは誰も疑うものはないと思います。しかしよく観察して見ますと、
  引きよせてむすべば柴のとぼそかな
    解くれば元の野原なりけり
で、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)も一朝火災にかかれば、灰燼(かいじん)に帰し、煙となって消え去るのであります。そのように、あると見て何時か無くなるものであり、そのもの自体もいろいろのものが寄り合い、組み合わされていて実体はないのであります、仏教では私どもの身体は、五大といって物質、液体、熱、気体、真空からなっているといいます。いまの科学でも物質を原子とか、電子とかいって微細なものに分析し、物体はそれが複雑な化学作用によって化合されたものであるといっております。それが常に変化し、また分解されているのであります。人間の身体も生を受けた刹那(せつな)から絶え間なく生長したり、老衰したりしているのであります。私どもの心も刹那々々に変転して極まりないものであります。
  年毎に咲くや吉野の山桜
    木を割りてみよ花のありかは
 凡てのものを実体がないと見てくるのを空観といいます。
  ありと見て無きは常なり水の月
とは、このことをいったのであります。
 しかしまた
  無しと見てあるは常なり水の月
で、目に見える池に映った月影は無いとは言い切れないのであります。けれど手にすくうことはできません。在るようでも実体はないのであります。水をもって喩えるなら、水は冷い、流れる液体であります。しかしそれは酸素と水素という気体の化合したものであります。分解すれば目にも見えない、手にも触れられないものであります。またその形も丸いコップに入れれば円形になり、四角の升に入れれば四角になりまた雨とも、雪とも、霰(あられ)とも雲や氷にもなり、冷いものが蒸気になれば熱くもなります。それでは水の実体は何かといえば、空(くう)であるとしかいうことができないでしょう。
 でも全くないのではありません。このようにあらゆるものが自然の作用によっていろいろの姿に変化して、それぞれの働きを無限に続けているのであります。これを法華経では妙法といっているのであります。この事実を否定することはできませんから仮りにあると認めるので、仮(け)といいます。
 仮は空であるからこそ、千変万化自由自在に活動ができるのであります。即ち空があっての仮であり、空であることは仮によって知ることができます。よって空と仮とは一体であって、空と仮とを別々に考えることはできないのであります。このように空と仮とを一体不二と見ることを中道と申します。天台大師は、
  「一つの色(形)一つの香も中道でないものはない」。
といわれ、恵心僧都はこれを解釈されて
  「一色一香は草木瓦礫(がれき)、山河、大地、大海、虚空(こくう)の一切の非情類なり。これらの万物、皆これ中道にあらざることなし」。
といわれています。天台宗はこの中道をおしえの中心としております。そしてこの空仮中の道理をはっきりさとり、われわれの心にもつことによって何ごとも一つのものに三つの道理があり、これが宇宙の生命であり、真理であり。法華の本仏として仰ぐなら、一粒の米にも、一滴の水にも仏徳を感じ、勿体(もったい)ないと押し頂く気持になるのであります。これを天台宗の一心三観といって、仏道修行の心構えとするわけであります。    

    (2)一念三千

 さらに仏教ではこの世の中を十の世界に分けています。即ち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の世界であります。これを一々説明いたしますと興味ある一席の法話になるのでありますが、いまは略さして頂きます。そしてこの十の世界に各々十界を具えているといいます。つまり人間の世界にも、地獄もあり、餓鬼道もあり、戦争や喧嘩の絶えない修羅道もあるわけであります。このように数えてきて三千の世界があると説いております。またこれを私どもの心の中に、最上の仏と最下等地獄の世界があり、心はころころころがるから、心というのだといった人がありますが
  傀儡師(かいらいし)首にかけたる人形箱
    仏を出さうと鬼を出さうと
 人形使いが首にかけた人形箱のように、心の中には聖人も凡夫も鬼も同居しているのであります。そしてとかく下等の鬼の方が勢力が強く、善人の仏や菩薩の領域を荒しがちなのであります。そこで私どもは修行によって心の地獄や餓鬼を屈服させて、仏、菩薩の心にならなければならないのであります。恵心僧都は横川法語の中で、
  「妄念の中より申し出したる念仏は濁りに染まぬ蓮(はちす)の如くにして、決定往生うたがいあるべからず」
と申されています。念仏を申す修行が、私どものこの迷い、汚れの多い心、そのまま仏への導きであり、自己の内奥にある仏の発見となるのであります。   

  修業の方法―四種三昧

 では天台宗ではどのように法華のおしえを私どもの生活の上に実際に行なっていったらよいかということになりますが、天台大師は「摩訶止観」十巻に詳しく説いていられます。題名にある通り止観ということが主目的であります。
 止観とは禅を行なう心構えのことであり、心をしずめ、心の奥にある正しい智恵をはたらかして、ものごとを正しく見、理解することで仏の心と自分の心が一体になることであります。その方法を四種三昧(ししゅざんまい)という四つにまとめられてありますのでお話いたします。
 四種三昧とは、常坐(じょうざ)三昧、常行(じょうぎょう)三昧、半行半坐(はんぎょうはんざ)三昧、非行非坐(ひぎょうひざ)三昧の四つであります。
 常坐三昧とは一般にいわれる坐禅、あるいは禅定(ぜんじょう)であります。これは端坐して、精神を統一し、仏を念ずる修行であります。それに入るには最初息を数えながら追々と無我の境地にはいる方法であります。
 次に常行三昧とは、歩きながら阿弥陀如来を念じ、口に名号を唱え、眼前に仏がいられることを観ずる方法であります。天台宗の寺院で法要のとき歩きながら阿弥陀経を読む、行道(ぎょうどう)というのを行ないますが、これを儀式化したのであります。
 半行半坐三昧とは、坐禅と礼拝と行道を兼ねた方法で、一心に罪咎(つみとが)を懴悔(さんげ)し、仏を念じて歩き、とどまって本尊を礼拝し、坐って黙想し、また起って歩くという修行であります。これを法華懴法(せんぼう)、または法華三昧といって儀式化されています。
 前の常行三昧を修する道場を常行堂といい、法華三昧を修する道場を法華堂といって比叡山や日光輪王寺のような大寺にはこの二つの堂が並んで建てられ、回廊で結ばれているので荷堂(にないどう)といわれ、俗に弁慶の荷堂ともいわれています。
 最後の非行非坐三昧とは、一定の修行法によらず、行住坐臥、何時でも、何処でも仏を念じ、仏を礼拝する気持をもち、自らの仏心を開らいていく方法であります。これは誰にもできる修行法でありまして、この意味を広く考えれば、つまり「治世産業みな仏教」ということになります。それぞれの生活が、そのまま仏道修行であります。しかしこの頃の私どもの生活は、非常に荒(すさ)んでいて、他人を挫いても自分だけ抜き出たものになりたいとか、世の人々を犠牲にしても自分だけ儲ければよいというようになっております。それをこの修行によって、心が仏と一体になれば、自分の出世も、自分の儲も、世の中の一切の助けがあったればこそと、感謝の心を抱くようになります。これを仏の智恵といいます。仏教では智は定(三昧)によって生まれるといいます。この智恵が働けば、自分の為すことすべてが、世のため、人のためになることだと考えられ、日々の生活に張り合いが出て、感激に満ちた日々が送れるのであります。これが法華経にいう菩薩で、伝教大師は「学生式」の最初に、
  「国の宝とは何ものであるか。宝とは道心である。道心あるものを名づけて国の宝という。」
 また
  「一隅を照すものが、すなわち国の宝である。」
  「すなわち、道心あるの仏の子を西には菩薩といい、東では君子という。悪いことは自分に向け、善いことを他人に与え、自分を忘れて他人のためにすることは、最高の慈悲である。」
と申されています。そして日本国は菩薩の国であると確信されたのであります。ところが現在エコノミックアニマルと外国から言われ、動物に落ち込んでしまったのであります。何とかして伝教大師の身命を賭してのご努力に報いねばならないと思います。


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 生と死の問題

 終わりに天台宗のおしえによる生死の問題について考えて見たいと思います。生と死の問題は、けだし宗教の中心問題であります。釈尊が出家され、さとりを開らいて仏になられた動機は、生老病死の四つの苦しみにあったといわれています。私どもがこの世に生を受けたからには、
  みな人の年をとるとて喜べど
    年に命をとられこそすれ
  もろうこと嫌でござるといいながら
    とらねばならぬくれて行く歳
といわれるように、刹那々々死出の旅路を休みなく進んでいるのでありまして、その間に病の苦しみを味い、老いの淋しさを感じながら、その短い道すがら慾と愛のしがらみに、喜怒愛楽の波乱を続けているのが、私どもの一生であります。そして最後には死という壁に突き当ってしまうのであります。死は誰も望まない、また恐ろしいことであります。
 東大教授で宗教学の学者であった故岸本英夫博士は、ガンであることを宣告されてから十年近く、病という問題に取組んで、強い精神力をもって深刻な苦悩と闘われたのでありますが、
  「まっくらな大きな暗闇のような死が、その口を大きくあけて迫って来る前に、私は立っていた。私の心は、生への執着で張り裂けるようであった。」
といっていられます。誰も永遠に生き抜いた人はありません。平家物語の書き出しに
  「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」
は有名な句であります。また
  「いろは勾へど散りぬるを、我が世誰れぞ常ならむ。」
は、いろは歌の上の句でありますが、ともに世の必然の道理をいい現わしたものであります。これがまた仏教の根本原理である無常観をいったのであります。盛者必衰、生あるものは必ず滅するというこの道理を知らぬ人は無いのでありますが、私どもは知らぬ振りをして、誤魔化しているのであります。しかし一人ももれなく突き当らなければならない深刻な問題であります。
 仏教では死を涅槃(ねはん)という言葉でいい現わしています。それは「吹き消された」という意味でありまして、寂静(じゃくじょう)と、釈されています。肉身が灯を吹き消したように無くなった意味にとれますが、また煩悩や心の汚れが吹き消されて、清浄無垢(しょうじょうむく)になった意味でもあります。お釈迦さまがクシナラの沙羅双樹の下で八十才で、入滅されたとき、弟子たちはお釈迦さまは亡くなられたと、悲しみ嘆いたのであります。そしてその偉大なおしえとお徳を敬慕して、お釈迦さまのご生涯を石に刻んでありし日を偲び、崇めたのでありますが、いまに遺っているガヤの大塔や、サンチーの仏塔には、入滅の光景を現わしたところには、お釈迦さまのお姿はなく、一本の菩提樹をもって象徴しその周りに多勢の人々が泣き悲しんでいるのがあります。これはお釈迦さまがこの世から消えて無くなられたことを表わしたのであります。
 ところが六七百年後のアジャンタの洞窟には大きな涅槃像が刻まれています。また近世築かれたクシナラの涅槃堂には石の巨大な涅槃像が安置されています。これは如実にお釈迦さまが涅槃に入られたお姿を表したもので、涅槃に対する考えが、違って来た歴史の流れを物語っているものだと興味深く拝んで来たことがあります。
 これは大乗仏教では、涅槃は死滅とは考えないのであります。無常観に徹すれば、いろは歌の下の句の
  「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」
で生滅にとらわれる迷(有為)をとり除けば、さとりの楽しみがあるということであります。
  後の世と聞けば遠きに似たれども
    知らずや今日もその日なるらん
で、世の中のもの凡てが、刹那々々生滅を繰返していることは、今の科学でも証明されています。死を知るには、現在の生を見極めれば、必ずしも生が一定不変でなく生滅の繰返しであることがわかるのであります。よって生を知るには死という深刻な現実をよく見極めることであります。そして生の中に死があり、死の中に大きな生があることがわかり、生とか死とかいうことにとらわれなくなれば、生死一如(いちにょ)の大きな世界に身を置くことができるのであります。これを涅槃というのであります。
 印度で最初お釈迦さまがこの世から消滅されて再びお目にかかれないと嘆いた仏弟子が、後に涅槃像を拝むようになって、眼前にお釈迦さまの涅槃を知り、その知ることによってお釈迦さまが生きて現におしえを垂れていられることを感じとるようになったのであります。法華経には釈尊の現身は滅しても、決して死滅したのではなく、常にここに在って法を説いているといっております。世を救い、人を導くためには、生死を超越していられるのであります。
 再々申した通り、法華経のおしえは菩薩のおしえであります。菩薩の理想とするところは、迷える世の人々は限りなく多数いるが、彼等を一人残らず救い終らなければ自らはさとりを得まいと誓願しているのであります。
  いつまでも浮世の旅の渡し守
    有為の波路のあらん限りは
  人をのみ渡し渡しておのが身は
    岸に上らぬ渡し守かな
という古歌はこのことをよくいい尽しております。
 宗祖大師は、僅か二十才前後の若さで、
  「あまねく法界をめぐり、あまねく六道に入り、仏国を浄め、衆生を成就し、未来際を尽して、恒に仏事をなさん」。
と願文を結んでいられます。燃えるような気魄に満ちた大誓願であります。また日本の寺を純大乗寺にするためには、
  「われは身命をも惜しまない。」
と宣言していられます。そしていよいよ余命いくばくもないと覚られ、弘仁十三年(仏1387・西822)遷化の直前、弟子に遺言された後、
  「われいくたびも、この日本に生れて来て、三学を習学し、一乗を弘めよう。若し心を同じうする者は、道を守り、道を修め、相思うて相待て」。
と申されています。お釈迦さまのわれ滅するにあらず、常にここに在って法を説いているというおしえを固く信じて、一乗のおしえを弘めるためには、いくたびもこの世に還って来て、志を同うするものとともに働かうと誓っていられます。法のためには死を超越していられたのであります。そして大師はこの世を去られて千百五十年、その間に日本文化の華を咲かせ、日本仏教の盛況を齎(もたら)されたのであります。宗祖大師は今に生きていられるのであります。私どもが大師のご精神を体して、一日一日を充実した生活を送り得るなら、それは大師のいわれた同志であり、大師と同行二人の信念に生きられることになります「日々是好日」という言葉がありますが、私ども一日一日が生と死の展開であります。生れない前の過去を知らない愚な人間が、死後のことを考えて恐れ、慌てることは愚かの骨頂であります
 今日の念仏は、今日あるがための感謝の念仏であり、明日への念仏であります。大師は「一隅を照すものこれ即ち国の宝なり。」と仰せられましたが、念仏の心を持って、各自の持ち場を充実していくことが、国も栄え、人類も幸福になり、死して悔いない信念が沸くのではないでしょうか。脚下(あしもと)を忘れて猪突盲進することは危険極まりないことであります。まず脚下を照らし、一隅即ち置かれた立場をよく照らすことが、仏を信ずるものの、第一の心がけだと考えるものであります。
 

 む す び

 現在、わが天台宗では一宗を挙げて、宗祖伝教大師千百五十年(昭和四十六年《仏2536・西1971》)を契機として、大師の「山家学生式」のおことばである「一隅を照らす、これすなわち国の宝なり」。のご精神を一般に普及させるため、「一隅を照らす運動」を展開しております。天台宗の檀信徒の方々はほとんどこの運動の会員になっていられることと存じますが、この短いことばの中に宗祖大師が法のため、国のため身命を賭して奮闘されたご精神が篭められているので、このおことばを噛みしめることによって、法華一乗のおしえを実践することになると思います。
 一隅とは狭い片隅にひねこび、いじけた状態にあるように解釈している或る有名な作家がありますが、それは宗祖大師のご精神や天台宗のおしえを知らない文字だけの解釈でありまして、皮相な考えといわなければなりません。今までに申述べてまいったように、私どもがこのように生活し、この世に存在しているのは法華経本門に説かれる久遠の本仏、すなわち宇宙の生命、あるいは真理の現われであります。まことに小さな、拙ない一存在に過ぎない自己ではありますが、それが大きな宇宙の一つの現象でありまして、大きな生命と同一な生命であります。そのことを自覚することによって、自分の一挙手一投足が、そのまま広大無辺な仏のはたらきと同じものであるとさとることができるのであります。そこに自己の尊さが感じられ、同時に他のあらゆるものの尊さを知ることができるのであります。
 「梵網経」に、「一切の男子はこれわが父、一切の女人はこれわが母なり、われ生々(しょうしょう)これより生を受けざるはなし、六道の衆生はみなこれわが父母なり、一切の地水はこれわが先身なり、一切の火風はこれわが本体なり。」
という万物一体の考えをもつことになります。また
 「一華(け)開けば天下みな春なり、一たび発心(ほっしん)すれば、法界ことごとく道なり。」
といわれる通り、一は万億の基本で、一の中に万億が内包されているのであります。よって一隅とは三千大千世界を意味するのであります。一隅を照らすことは大宇宙を照らすことになり、一個人の心が明るく照り輝くことは、万人の心が明るく照り輝くことになり、世の中が明るくなるのであります。
 照らすということは、暗(くらやみ)を退けて現在を明るくし、未来を開らくことでありまして、お経の中には仏の徳を光明に喩えて、いたる処にいいあらわされています。そしてその光明はあまねく十方世界を照らすといって、私どもの毎日のお勤めに唱えています。一隅を照らすことは、すなわち「光明遍照十方世界」であります。
 このように深い意義をもった「一隅を照らす運動」であり、お互に分相応に、その置かれた立場にあって、「なくてならない人」として、国の宝になりたいものであります。それが宗祖伝教大師のご精神を現代に生かし、大師が「相待て」といわれた同志としてご期待に添うことができるのではないかと思うのであります。
 以上宗祖伝教大師のご事蹟を辿りながら、天台宗のおしえの一端を申し述べたのであります。しかし天台宗の檀信徒のために、天台宗のおしえは何を説いているかについて、主要なことは挙げてお話したつもりであります。これを機縁に一層深く、大師のご人格に触れ、天台宗のおしえの尊いものであることを知りたいと希望されるよう祈っております。
(2567.2.28)




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