モノポリーの歴史



モノポリーの由来・歴史については電網上に適当な文が寡聞にして見受けません。以下に紹介する一文はスーパーファミコンソフト「モノポリー2」にある記事が大変分かりやすく且つよくまとまっているので、更にモノポリーをよく知り親しみを持っていただこうと引用したものです(時制・肩書き等は当時のまま)。著作権は発売元のトミーにあります。

「チャールズダロウストーリー」


 モノポリーはアメリカペンシルバニア州ジャーマンタウンに住むチャールズ・B・ダロウによってつくられたゲームである。

 1929年の株式市場の崩壊によりアメリカでは数百万人の失業者が街にあふれた。かつて暖房器具のセールスエンジニアであったダロウにとっても経済的問題は深刻であり、1930年代の初めは職探しに明け暮れていた。すでに妻のお腹の中には二人目の子供がいたので、電気アイロンの修理や犬の散歩といった仕事まで臨機応変にこなし妻や子供を養っていた。当然周囲にいる彼の友人たちも皆職にあぶれていたので映画や芝居といった娯楽には縁がなく、夕方や週末になると誰かの家にあつまっては会話を楽しんでいた。

 そんな時米国緊急救済事務局も閉鎖され、将来に対してもはやわずかな望みも持てないような状況になってしまった。ダロウは彼や妻が数年前のもっと生活に余裕のある頃、休日になると過ごしたお気に入りの海辺のリゾート地アトランティックシティの街をなつかしみノスタルジアにひたっていた。

 1930年のある日、日頃から物を発明したり創作したりするのが好きだったダロウは、台所のテーブルクロスの上にアトランティックシティの通りの名を思い出しながら書きだした。彼が選んだ通りはすべて「ボードウォーク(板張り遊歩道)」に沿ったインレットとパークプレイスとの間の片側の通りだった。そして通りを書き終えた後である短い名前をマーゲイトからとってマービンガーデンとしボードに加えた。彼は休暇を楽しむ裕福な人々の足となる3つの鉄道会社に、ふだんお世話になっている電気水道会社といった公共施設を加え、価格の変動する不動産の区画もその中にいれた。また鉄道はボード上に対称に入れたかったので、4つめにアトランティックシティに実在する貨物運送のバス会社ショートラインを追加した。そして塗装店で何色かの色見本を無料でもらいゲームボードに色をつけた。

 新しいゲームが彼の頭の中で徐々に形となりつつあった。材木置き場からは木切れをひろってきて家とホテルをつくり、厚紙で所有地名を表示し、駒には色つきのボタン、さらには2つのダイスとたくさんの現金紙幣を用意した。

 それからというもの、夕方になると友人があつまり、不動産の売買をしたり現金を貸したり増やしたりするためにテーブルを囲むようになった。実際の生活ではわずかな現金しか持っていない。しかしゲームの上では自分に有利な土地をそろえるために複雑な取引をかわし多額の金を扱うことができる……。そのゲームは簡単で粗末なつくりではあったが、プレーヤーを夢中にさせた。友人たちは夕方になるとどこからともなくあつまってくる。「モノポリーイブニングス」はダロウ家の恒例となった。

 そのうち友人たちもそのゲームが欲しくなった。自分の不動産売買における成功のテクニックを自慢したいというようなこともあり、みんなゲームの製造を彼に依頼しはじめた。失業中のダロウにはありあまる時間があったので、ゲームボードや土地のカードのコピーをつくりはじめた。喜んだ友人たちは自分たちのダイスや駒、時には現金紙幣を提供してくれた。注文が増えるにつれて彼は一日2セットのゲームをつくるようになった。1セットを4ドルで売り、売れていったゲームがまた新しいお客をつれてくるようになった。そのゲームは話題となり、彼のまわりでは友人たちとモノポリーをプレイすることが流行となった。

 ゲームが口コミで広がり、およそ100セットを売ったとき、注文が多すぎて彼の単純な製造では需要に追いつかなくなってしまった。さらに彼は友人以外の外部の人達にもゲームを広めるために、数セットのゲームをつくり近くのフィラデルフィアのデパートに持ちこんだ。すると案の定ゲームは売れた。彼は自分のゲームが商品化できると確信した。もっと生産をあげるために友人がゲームボードとカードの印刷を受け持ち、ダロウが着色と組み立てをした。この分業化により一日に6セットをつくれるまでになった。その後モノポリーはフィラデルフィアのデパートでかなりの評判になり、彼の予想をはるかに上まわる注文を受けるようになった。

 1934年、ダロウは彼のつくった面白い娯楽が立派な金儲けになりうる十分な手応えを感じた。一日6セットの製作ではその注文にこたえられなくなったダロウ。彼に残された道はもはや二つに一つしかなかった。借金をしてでもゲームビジネスに飛びこんでいくか、あるいはゲーム会社にモノポリーを売ってしまうかのどちらかである。

 彼は後者の道を選んだ。世界でも指折りのゲームの製造販売会社であるパーカーブラザーズに次のような手紙を送った。

「もし貴社がモノポリーを全国規模で製作・販売することに興味をお持ちでしたらお会いしたい」

 パーカーブラザーズはすでにゲームの世界で半世紀の歴史を誇っており、熱心なゲーム発明家たちがゲームの新作を送ってよこすのに慣れていた。それでもモノポリーというゲームの基本的な構成がおもしろそうなので、とりあえずいつも試すようにマサチューセッツ州セイラムの本社で役員たちがゲームをプレイしてみた。何度か試してみて役員全員がおもしろいゲームであることを認めたが……。しかし残念なことにダロウのゲームはパーカーブラザーズが定義づける「ファミリーゲーム」の体系にあっていないという結論がくだされた。

 パーカーブラザーズが定義づける「ファミリーゲーム」の体系とは
 (1)一回のゲームが45分前後で終了する
 (2)明確な終わりがあるゴールに到達する
というものである。

 モノポリーはプレイをはじめると4時間も続くし、プレイヤーはただボードの上をぐるぐるとまわり続け、ゴールというのは他のプレイヤーが破産した場合だけである。それよりもパーカーブラザーズの社員には、抵当やレンタル料・権利書といったことをふくめたモノポリーのルールが、一般の人にとってあまりにもむずかしいように見受けられた。数週間そのゲームを検討した後、パーカーブラザーズでは、モノポリーには51ヶ所の根本的な誤りがあり、それは決して一般大衆受けするものではないので、ゲームは採用しないということを満場一致で決め、その通知をダロウに送った。

 ダロウは人々がそのゲームにどんな反応を示すのかが良くわかっていただけにショックを受けた。しかし彼は友人の印刷業者にさらに500セットの製造を依頼し、彼のたった一つの財産であるモノポリーを地元で売り続けた。

 彼のゲームの評判は下がらず、その年のクリスマスシーズンにはフィラデルフィアのデパートから大量注文がなされた。それに気付いたパーカーブラザーズのセールスマンが本社に進言した。それを受けたパーカーブラザーズはモノポリーの再検討を始めた。

 その後、同社社長のロバート・M・バートンは、ゲームやおもちゃを扱う大型店FAOシュワルツがモノポリーを200セット仕入れて販売しているのに目を止めた。そしてロバートはモノポリーを購入し家で夢中になってプレイをした。翌日彼はダロウに手紙を書き三日後に二人はニューヨークで会った。

 パーカーブラザーズは即座にそのゲームをすべて買い上げ、印税を支払うことをダロウに申し出た。しかしゲームを製作する上で、ルールを簡潔でわかりやすくするために、いくつかの点を改良するようにと強く主張した。プレイの時間に制限がなさすぎると主張する同社に対し、ダロウはもっと短時間にプレイできるようにゲームに手を加えることを許可した。この時間短縮版は通常のルールと一緒に印刷され、人々は好きなほうを選んでプレイできた。ダロウは最終的に条件をのんでパーカーブラザーズとの契約書にサインした。

 その後彼は自分の想像力の産物を売るという決断を後悔したことは一度もなかったと語っている。モノポリーの印税で彼は一躍百万長者となった。46歳で現役を引退し、農場主として、古代文明に興味を持つ海外旅行者として、また映画の撮影者、さらに珍種のランの収集家として1970年に亡くなった。

 アトランティックシティでは彼の功績に敬意を表し、パークプレイスと接するボードウォークにチャールズ・B・ダロウの記念碑を建てた。


「ジャパニーズヒストリー」


 モノポリーが初めて日本で正式に発売されたのは1960年代の終わり頃であるといわれている。本場アメリカでモノポリーが誕生したのが1935年、約30年遅れての登場である。それ以前にも輸入版でプレイしていた人々はいたが数は少なかった。当時の日本におけるモノポリーの認知度は極めて低く、最初に販売を手がけたはなやま玩具は相当苦戦を強いられたようである。

 しかしすでにこの当時世界的なモノポリー人気は不動のものとなりつつあったようだ。あのビートルズも1966年の来日公演の時にはホテルでモノポリーに興じていたという記録が残っている。

 1972年、モノポリーの日本国内での販売権は、はなやま玩具からエポック社へと移った。このとき発売されたエポック社製のモノポリーはスロットマシン型のダイスがボードの中央についているのが特徴。日本人向けにデザインを大きく変えたものであった。モノポリー世界選手権代表選考会を初めて主催したのもエポック社である。世界大会に向けてプレイヤーたちを開眼させるきっかけとなった。

 1984年、販売権はツクダオリジナルへ移動。

 1985年アメリカで行われた第7回世界大会では、4ラウンドに及ぶ予選を勝ちぬいた南芳信氏が日本人初の決勝戦出場を果たした。決勝戦の場所はモノポリーフリークにとってのメッカ、アトランティックシティ。南氏は惜しくも第4位となった。

 1986年、コピーライターの糸井重里氏がフジテレビ「笑っていいとも!」に出演し、今夢中になっているゲームとしてモノポリーを紹介。その影響力は予想をはるかに越え、玩具店には視聴者からの問い合わせが殺到した。この日を境にモノポリーはマスコミに取り上げられる機会が急増する。折しも時はペンションブーム。若者はこぞってグループ旅行の鞄にモノポリーを詰めこんだ。

 1988年、販売権はアメリカでの販売元・ケナーパーカー社の子会社、ケナーパーカージャパンに移動した。ケナーパーカージャパンは通常版のほかに新たに「銀座」「赤坂」といった東京の町の名前を用いた「ヤングモノポリー」を発売。日本の地名がボード上に登場した最初のモノポリーである。

 そしてこの年、イギリスで開催された第8回世界大会でついに日本人の世界チャンピオンが誕生する。参加国は29ヵ国。予選トーナメントを勝ち上がってきたのはニュージーランド・プエルトリコ・イスラエル・スウェーデンの各代表、そして日本代表百田郁夫氏の5人。1988年10月16日、パークレーン(イギリス版モノポリーで「パークプレース」に当たる土地)にて行われた決勝戦で、百田郁夫氏は世界のモノポリープレイヤーの頂点に立ったのである。

 1989年、販売権がトミーに移り、それと同時に日本モノポリー協会が設立された。実行委員会は会長選出に際し、満場一致で糸井重里氏を推薦。氏も快くこれを承諾し、日本モノポリー協会は順風満帆のスタートをきった。

 その3年後の1992年、第9回世界大会がベルリンで開催される。日本代表の糸井重里氏はディフェンディング・チャンピオンの百田郁夫氏と共に世界28ヵ国の強豪と戦い、結果は百田氏が2位、糸井氏が8位。

 1993年、トミーより「モノポリー2」の前作に当たるスーパーファミコンソフト「モノポリー」が発売されたちまち大ヒット。モノポリー人口も一気に増加する。それまで人数が集まらずにプレイをあきらめていた人々にとって、一人でも気軽にバラエティ豊かなコンピュータープレイヤーと対戦できるこのソフトはまさに救世主だったといえよう。

 1994年、日本モノポリー協会は会員数1000名を超えた。その月例会も第1回を糸井重里会長が企画して以来毎月大盛況である。同年トミーは子供向けにルールを簡略化した「ジュニアモノポリー」を発売。これも通常版同様好調な売れ行きを見せている。

 そして1995年現在、モノポリーはボードゲームの定番アイテムとして日本全国300万人以上の人々に愛されるまでに成長した。トミー主催のモノポリー大会も参加希望者が年々倍増している。また各地では愛好家たちがあつまってクラブを結成し、モノポリーの輪を広げるべく精力的な活動を展開中だ。

 ますます熱く盛り上がる日本のモノポリーシーン。1996年開催予定の世界大会をめざして、今日もどこかでモノポリーフリークたちがダイスをふっているにちがいない。

  ※追記
   その後、昨年に開催された第11回世界選手権で日本代表の岡田豊氏が日本人2人目の世界チャンピオンとなった。



戻る